『諸説の合理性』という記事で、「諸説」は評価がされるというような話をしました。では、どのような説が合理的と評価されて、どのような説が誤りと判断されるのでしょうか。翻って言えば、合理的な説とはどうあるべきなのでしょうか。これについて述べたいと思います。
重要な要素の一つに「客観性」があります。
客観的根拠を要してはじめて合理性が生まれ、評価の対象となります。
語源に関する説は、4つに分類できます。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) 2018年6月8日
A もちろん説(証拠が十分で否定しがたい)
B おそらく説(証拠不十分だが合理的)
C あるいは説(違和感があるが強く否定する材料もない)
D フェイク(明白な否定材料がある)
議論に値するのはAからCまで。Dを「正解」とするテレビ番組は不誠実です。
飯間氏は上記のように「諸説」を分類しています。この文章を読むと、表面上「否定材料がなければ、議論に値する(A~C)と判断される」ように感じます。また、誤説の護衛者はしばしば「明白な否定材料がなければ間違いとは言い切れない」というようなことを言います(そして多くの場合、その他の説を否定材料なく無視します)。
しかし実際には、客観的根拠がなければそもそも上記A~Dに分類される以前に評価の俎上にあげるべきではありません。例えるならば、途中式が全く書かれていないか読み取れない数学テストの解答といったところでしょうか。