古代漢字学習ブログ @kanji_jigen

古文字(古代の漢字)の研究に関するメモ

「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」は誤り

「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」という説があります。以下のように、現在販売されている漢和辞典にも掲載されています。

象形。からすの形にかたどる。からすはからだが黒く、目がどこにあるかわからないので、「鳥」の字の目にあたる部分の一画を省いた。借りて、感嘆詞、また、疑問詞に用いる。

――『角川 新字源』改訂新版、角川書店2017年、p824

烏は鳥の目玉を表す部分である「-」を省いた形。

――『漢字源』改訂第六版、学研2019年、p1152

しかし、この説は誤りです。

この説は金文の研究が盛んになるより以前に提唱されましたが、清代に金石学(金文研究)が発達したおかげで誤りであることがわかりました。すなわち、古文字学(古代の漢字を研究する学問分野)の世界では100年以上前に否定された説です。

漢和辞典に掲載されているいわゆる「漢字の成り立ち」「字源」の解説は門外漢によって書かれたものであり、本職の古文字学の専門家による監修が行われていないため、このような信頼できない説が蔓延しています。

おそらく、多くの人が「漢和辞典に掲載されていることだからきっと正しいだろう」と思って上記の説を鵜呑みにしていると思います。おそらく漢和辞典の編集者も同様に「○○に掲載されていることだからきっと正しいだろう」と考えて無批判にそれを書いたのでしょう*1

 

 

(以下の説明は文字の歴史や研究の歴史を時系列順にトレースしたものではありません)

漢字の形は変化する

漢字は長い歴史を持っており、時間を経る中でそれぞれの形は大きな変化を遂げました。同じ字でも、時代によってその形は異なります(そしてこの「変化」には人間の「意図」を必要としません)。このことは世間ではあまり認識されていないようです。特に、同じ形だったものが異なる形に変化したり(例:「水」と「氵」、「火」と「灬」など)、異なる形だったものが同じ形に変化したり(例:「天」「犬」「奥」「莫」の「大」、「朔」「背」「朝」「勝」「青」の「月」など)することがあるというのは、理解するのにかなり抵抗があるようです。

「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」という説は、現在の「烏」と「鳥」の形をみると、一見「うまくできて」います。

現在の「烏」と「鳥」

現在の「烏」と「鳥」の形が、横棒一本の差だからといって、昔からそうだったとは限りません。どのように変遷していったのかを確認する必要があります。

 

南北朝期から唐代までの形

以下に、南北朝期(5世紀末頃)から唐代までに書かれた「烏」と「鳥」の字を示します。

なお、例は以下から引用しました。

  • 梅原清山 編、『北魏楷書字典』、二玄社、2003年。
  • 梅原清山 編、『唐楷書字典』、二玄社、1994年。

この頃書かれた字を参照する場合は、上に挙げた書道字典と呼ばれるものを用いるのが簡便です。もっとも簡単には拓本文字データベースで無料で確認することができます。

より専門的には、南北朝期については下記を用いると良いでしょう。

  • 毛遠明:《漢魏六朝碑刻異體字典》,中華書局,2014年。
  • 張穎慧:《魏晋南北朝石刻文字整理研究》,知識産権出版社,2015年。
南北朝期~唐代に書かれた「鳥」

「鳥」字は現在とほぼ同じ形です。よく見ると横棒が今よりも(さらに)一本多いものがあるのですが、よくあることで些細な違いです。

 

南北朝期~唐代に書かれた「烏」

「烏」字は現在とは違い、上部が“ク”のように書かれていました*2。「鳥」字と比較すればわかるように、横棒一本の差ではありませんでした。

現在のような「鳥」より一本少ない形は、調べた限りでは(形が曖昧なものもありますが確実な例は)開成石経『五経文字』(837年、『五経文字』自体の成書は776年)と思われます。

開成石経『五経文字』の「烏」

開成石経は科挙の標準を定めるために建てられた石刻で、その中の『五経文字』は文字の形を定めたものです。『五経文字』では、当時一般的な形かどうかとは関係なく「標準の字体」が定められ、新しく作られもしました(後述)。

この『五経文字』に従って、開成石経では他の箇所でも「烏」はこの形に書かれています。(実際の科挙における効力がいかほどだったのかは謎ですが)これ以降この形が多く使われるようになり、現在に至ります。

新しい形とそれまでの形には連続性があります。それまで使われていた形の1、2、3画目の位置・バランスを変更すると新しい形になります(新しい形では縦画が3画目から2画目になります)。

五経文字』前後の「烏」

そういうわけで、現在の「烏」と「鳥」が横棒一本の差になったのは、「烏」の筆画位置・バランスが変化した結果の偶然です。

(私は聞いたことありませんが)「『五経文字』の作者が「カラスは体が黒く目がどこにあるかわからないから」という理由で「鳥」に似せた形を「烏」の標準形に定めたのかもしれない」という主張があるかもしれませんが、『五経文字』の作者にそのような思想があったかどうかは確かめようがありませんし、少なくとも「そのような思想がなければ「烏」の新しい形は生まれなかった」とは思えません。

 

説の登場

その後、「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」説が登場します。陸佃(1042-1102)という人が書いた《埤雅》という辞書の「烏」の項目にあります。

林罕以爲全象鳥形,但不注其目睛。萬類目睛皆黑,烏體全黑,遠而不分別其睛也。

――陸佃《埤雅・釋鳥》卷六

ここでは林罕という人物が例の説を唱えているとあります。厳格に言えば「目の位置が判別できないから、目がない鳥の形」と言っているのであって、「目の位置が判別できないから、(既存の)「鳥」の字から目の画である横棒を省いた」とは言っていませんが、まあ細かいことは良いでしょう。

林罕という人物については記録が少ないため謎が多いですが、《字源偏旁小説》という字書(?)を937年に書いたとされています*3。《埤雅》では他の箇所で「林氏《小説》」なるものを引用しており、上の「林罕」と「林氏《小説》」はともに《字源偏旁小説》を指しているものと考えられます。

残念ながら《字源偏旁小説》は序文を除いて現存していません。

 

説文小篆

《字源偏旁小説》の時代には古文字学は全く発達しておらず、甲骨文は発見されていませんでしたし、金文や戦国竹簡は発見されてはいたもののほとんど研究されていませんでした。冒頭で述べた通り漢字の形は変化するため、いわゆる「漢字の成り立ち」を研究する際は必ず変化する前の形を追う必要がありますが、当時確認できた最古の文字資料は《説文解字》に掲載されている小篆の字形でした。

説文解字》は許慎という経学者が後漢(100年)に書いた字書です。《説文解字》では各字について、後漢より前の秦代に使われていた小篆と呼ばれる書体の形を見出しとして掲載しています。これを説文小篆と呼びます。

説文小篆の「烏」と「鳥」

説文小篆では「烏」と「鳥」が横棒一本の差になっています。上で「鳥」より一本少ない形の「烏」は『五経文字』が最初と言いましたが、《説文解字》は後漢代のものですからこれは唯一の例外です。

しかし説文小篆にはいくつかの問題があります。現在伝わっている《説文解字》の内容は、後漢代のオリジナルのものではありません。《説文解字》は許慎が書いた後、後世の人々によって何度か手を加えられつつ伝わっていきました。現存最古の《説文解字》の内容は宋代(《字源偏旁小説》と同じ10世紀半ば頃)のものです。したがって、「烏」と「鳥」が横棒一本の差になっている説文小篆が、後漢代のオリジナルのものかはわかりません*4

とはいえ、『五経文字』では文字の形を定める際に《説文解字》を参考にしているようです。特に唐代、「漢字を正しい形で書こう」という運動があり、そこでは「字源に即した形」が「正しい形」であるとされていました。既に述べたように、当時確認できた最古の文字資料は《説文解字》です。したがって、この時代には《説文解字》の解釈と小篆の字形に基づいてそれまで使われていた字の形を改造する試みがされていました。『五経文字』は、その流れの中で作られたいわば「正しい形」の見本書でした。

そのため、『五経文字』の影響で説文小篆に手が加えられた可能性よりも、説文小篆の影響で『五経文字』の形が定められた可能性のほうがかなり高く、すなわち『五経文字』で「烏」と「鳥」が横棒一本の差になっているのは、説文小篆でもそうなっていたからと思われます。もしそうだとすれば、少なくとも8世紀半ばには説文小篆は現在と同じ形だったことになります。

 

秦漢文字

小篆は秦代に使われていた書体ですが、その後漢代になってからも使われていました。小篆は主に印章に用いられました。以下に秦・漢代(紀元前3世紀~3世紀頃)に書かれた(彫られた)小篆の「烏」と「鳥」の字を示します。

なお、例は以下から引用しました。

  • 趙平安、李婧、石小力 編纂:《秦漢印章封泥文字編》,中西書局,2019年。

秦・漢代の印章の文字を確認するにはこれが最も良い字典です。ただし、一部を以下より補いました。

  • 黄德寬主編;徐在國、程燕、張振謙 編著:《戰國文字字形表》,上海古籍出版社,2017年。

まず「鳥」字の例を挙げますが、単体の「鳥」字の例は少ないので、「鳳」「鴻」字をあわせて挙げます。

秦印・漢印の「鳥」「鳳」「鳳」「鴻」

細かいバリエーションがありますが、説文小篆とは形が異なっています。例えば、説文小篆では右上に、左の縦画に接しない“Z”字型の筆画があるのに対して、実際に書かれた小篆はそのような形の筆画はなく、また右上にある横画は全て左の縦画に接しています。最後に挙げた「鴻」はおそらく唯一の例外で、右上の筆画が“Z”字型ではなく“コ”字型ではあるものの、左の縦画に接しておらず、説文小篆に近似しています。

秦印・漢印の「烏」

「烏」字も実際に書かれた小篆の形は、説文小篆とは大きく異なります。実際の小篆の「烏」の特徴は、上部が“H”字型になっているところでしょうか。この部分が後の“ク”になります。説文小篆のような“Z”字型の筆画は見当たりません。

「烏」字の形の変化イメージ

実際に書かれた「烏」「鳥」の小篆は、説文小篆のように横棒一本の差ではありません。

このように説文小篆の形が実際に書かれた小篆の形と異なることは、よくあることです。説文小篆が後漢代のオリジナルの《説文解字》の時点で実態と乖離していたのか、後世の人々によって改変されたためなのかはわかりませんが、いずれにせよ説文小篆は古文字資料としては不正確なものであるということは覚えておいたほうが良いでしょう*5

私は、オリジナルの《説文解字》の時点で「烏」と「鳥」が横棒一本の差であったなら、許慎が本文中でそのことに触れていたはずだと考えています。しかし《説文解字》の本文では「烏」の文字の形についてはただ「象形」としか述べられていません(形の説明の他には、孔子の言葉を引用してカラスは鳴く鳥だと書かれています)。説文小篆は後代に隷書または楷書をもとに手が加えられ、その結果たまたま「烏」と「鳥」が横棒一本の差になり、変化後の説文小篆の形をみて林罕が例の説を考えた、というのが想定されるストーリーです。

(私は聞いたことありませんが)「説文小篆に手を加えた者が「カラスは体が黒く目がどこにあるかわからないから」という理由で「鳥」と「烏」の説文小篆を似せたのかもしれない」という主張があるかもしれませんが、説文小篆に手を加えた者にそのような思想があったかどうかは確かめようがありませんし、少なくとも「そのような思想がなければ説文小篆の新しい形は生まれなかった」とは思えません。さらにいうなら、説文小篆に手を加えた者がそう思ったのなら、本文にも手を加えていたでしょう。

 

清代の金石学と毛公鼎

金文の本格的な研究は宋代に始まりましたが、基礎的な理解にとどまり、すぐに廃れました。その後、金文研究は清代に復興するとともに大きく進展しました。

19世紀半ばに「毛公鼎」と呼ばれる青銅器が発見されました(《陝集*6》130)。毛公鼎は西周代、宣王が治めていた頃の青銅器とされます。毛公鼎の銘文が最初に収録された研究書は、徐同柏の《從古堂款識學》で、《從古堂款識學》は1854年に書かれたとされますが、現存最古のものは1886年に出版されたものです。

毛公鼎

この器の銘文に「烏」字が登場します。

毛公鼎の「烏」(右は模写)

この字は《從古堂款識學》の時点ですでに「烏」と(正しい)解読がなされていました。銘文には「烏虖」と書かれており、これは現在では普通「嗚呼」と書く感嘆詞です。

19世紀末~20世紀初には多くの金文研究者がこの「烏」字を認識していました。この頃書かれた金文研究書には例えば以下がありますが、みなこの字を「烏虖」の「烏」としています。

  • 吴式芬:《攈古録金文》,1895年。
  • 吴大澂:《愙齋集古録》,1896年。
  • 劉心源:《奇觚室吉金文述》,1902年。

また吴大澂は同じく19世紀末に金文字典である《説文古籀補》を著しました。《説文古籀補》で「烏」の項目を引くと、毛公鼎の字が掲載されています。

《説文古籀補》の「烏」の項目(一部分)

毛公鼎の「烏」字には、いわゆる「目の画」がしっかり書かれています。すなわち今から100年前の19世紀末~20世紀初にはすでに多くの古文字研究者が「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」という説には同意していなかったことがわかります。

なお、『角川 新字源』に掲載されている「烏」の金文の字はこの毛公鼎のものです。

『角川 新字源』の「烏」

 

西周金文の「烏」と「鳥」

新しい出土や金文の研究が進み、毛公鼎以外からも「烏」字が発見されました。以下に西周金文の「烏」字を挙げます(近年発見されたものも含みます)。

ちなみに、西周金文の字を確認する場合は下記の字典を用いると良いでしょう。

  • 張俊成 編著:《西周金文字編》,上海古籍出版社,2018年。
  • 黄德寬主編;江學旺 編著:《西周文字字形表》,上海古籍出版社,2017年。
西周金文の「烏」字

これらはすべて毛公鼎と同じく「烏虖」に用いられていますが*7、いわゆる「目の画」はありません。「目の画」は字の区別とは関係のないディティール部分ということです。漢字の形は、義務教育で全国民が学習する(そのため「基準」を整備する必要がある)現在と違い、当時はいわば「わかるやつがわかればいい」ものであったため、現在から見ると非常に大雑把です(無秩序だったわけではありません)。

孫詒讓という学者が、1905年(頃)に《名原》という字源研究書のようなものを著しました。《名原》では「烏」字について、西周金文の形を引用して、「「隹」と似ているが、口を開けて鳴いている形」だと述べられています。

烏亦與隹古文□略同,但上爲開口盱呼形,小篆殊失其本意也。

――孫詒讓《名原》卷上p12

これが現在でも古文字学の定説になっています*8

なお、西周金文の「鳥」は次のような形です。

西周金文の「鳥」「鴅」「鸞」「鸞」字

1つ目の「鳥」はかなり細かく描かれているものの、いわゆる「目の画」はありません(字の向きが左右逆ですが、この時代にはよくあることです)。最後の2つは、一つの青銅器の蓋と本体にそれぞれ書かれた、同じ人の氏名の「鸞」字です。本体に書かれた字には「目の画」があり、蓋に書かれた字には「目の画」がありません。「鳥」についても、「目の画」は字の区別とは関係のないディティール部分ということがわかります。

西周金文の「烏」と「鳥」を比べるとその形は横棒一本の差ではなく、孫詒讓が言うように(孫詒讓は「烏」を「鳥」ではなく「隹」と対比しましたが)、「鳥」が正面(我々から向かって左真横)を向き口が閉じた状態であるのに対し、「烏」は上方を向き口を開けた(すなわち鳴いている)形になっているというのが、字の区別における重要な点だとわかります。

 

殷墟甲骨文の「烏」と「鳥」

殷墟甲骨文の「烏」と「鳥」の字を示します。

なお、例は以下から引用しました。

  • 劉釗 主編:《新甲骨文編》(增訂本),福建人民出版社,2014年。
殷墟甲骨文の「鳥」字
殷墟甲骨文の「烏」字

現在発見されている甲骨文の鳥関連の字には全ていわゆる「目の画」がありません。「目の画」が字の区別とは関係ないことがわかります。

甲骨文の「烏」字は、(西周金文の「烏虖」とは異なり)「烏」であることが明確である用例がないため、研究者の間ではながらく「鳥」と混同されていました。そのため、《新甲骨文編》(增訂本)を含めほとんどの甲骨文字字典では「烏」の項目がなく、すべて「鳥」の項目に収められています。以下の論文では、これらの字が「烏」であることが指摘されていますが、まだあまり知られていないようです。

  • 林澐:《關於甲骨文“字素”和“字綴”的一些問題》,《中國古文字研究》第1輯,吉林大學出版社,1999年(林澐:《林澐文集・文字卷》,上海古籍出版社,2019年に再録)。
  • 黄天樹:《殷墟甲骨文形聲字所占比重的再統計》,李宗焜 主編:《出土材料與新視野》,中央研究院,2013年(黄天樹:《黄天樹甲骨金文論集》,學苑出版社,2014年に再録)。

私の知る限りでは、この甲骨文の「烏」を反映させた甲骨文字字典は次のもののみのようです。

  • 劉釗、馮克堅 主編:《甲骨文常用字字典》,中華書局,2019年。

以下は甲骨文の「鳴」字です。鳥の形の横に「口」が添えられています。

殷墟甲骨文の「鳴」字

甲骨文の「鳴」字は多くの場合ニワトリの形が描かれますが(頭にトサカがあるのが重要な区別点です)、カラスを描いたものも見られます。「烏」が(孫詒讓の言うように)「鳴いている形」であるということがよくわかります。なお、「鳴」という字の旁はのちにニュートラルな「鳥」に変化しました。「鶏」字の旁も、甲骨文ではトサカがありましたが、のちにニュートラルな「鳥」に収束しました。

 

まとめ

  • 「烏」字は鳴いている鳥(カラス)の形を描いたもので、上を向いて口を開けている点が「鳥」字と異なる。
  • 「烏」字も「鳥」字も、甲骨文・金文ではいわゆる「目の画」は描かれたり描かれなかったりしたので、「目の画」は字の区別とは無関係の筆画である。
  • 説文解字》よりも後の時代から唐代晩期までに、それぞれの字の形が変化して、たまたま「烏」と「鳥」は横棒一本の差になったと考えられる。
  • その後、林罕という人物が「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」という説(の元ネタ)を唱える。(そして金文の研究が滞る中、陸佃《埤雅》を経由して戴侗《六書故》、さらに《説文》段注などにも引用され、この説が「権威性」を増していく)
  • 清代後期に金文の研究が盛んになり、19世紀半ばに毛公鼎が出土し、「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」が誤りであることがわかる。
  • さらなる研究の進展により、20世紀初頭に「烏」字が「鳴いている形」であることがわかり、これが現在の古文字学の定説になっている。

 

オマケ:「目の画」の新説

2022年7月29日に放送されたNHKのテレビ番組『チコちゃんに叱られる!』にて、『角川 新字源』の編者である阿辻哲次氏(番組では「日本漢字学会会長」と紹介)が登場し、この「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」説をまことしやかに解説しました(ここでは甲骨文自体に関しても誤った解説がされていました)。

番組では、驚くべき新説が盛り込まれていました。

「烏」と「鳥」の「目の画」とは、以下に示す通り、通常は頭部にある小さい点のことだと思われます。

「目の画」

しかし番組内の阿辻哲次氏いわく、下記の部分が「目の画」であるとのことでした。

阿辻哲次氏のいう「目の画」

(いずれにせよ「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」は誤りなのですが)、この「目の画」の定義がおかしいということは、これまでに掲載した字から明らかでしょう。

阿辻哲次氏は2017年に以下のように述べています。

「甲骨文字」の時代から一貫して、《烏》が《鳥》より線一本少なく書かれているのはまぎれもない事実である。

――阿辻哲次『「烏」が「鳥」にならない理由』、日本経済新聞2017年7月23日

ここには「目の画」が「線一本」であると書いています。しかし、番組内で定義された「目の画」は線一本ではありません。この5年のうちに定義を改めたのでしょうか。

既に述べたように、専門家の使うような甲骨文字字典ですら「烏」の甲骨文は発見されていないことになっていました(「鳥」の項目に収められていました)。『角川 新字源』の「烏」の項目に甲骨文は掲載されていません*9阿辻哲次氏がみた、《鳥》より線一本少なく書かれている《烏》の甲骨文字とはなんだったのでしょうか?私は阿辻哲次氏は「エアプ」だと思っています。

番組内で定義された「目の画」によれば、甲骨文の「烏」はこのような形だったということになります。

番組の解説から想定される甲骨文の「烏」

しかし、甲骨文中にこのような形の字は存在しません。

また、番組内で定義された「目の画」は、現在の「鳥」の4画目の横画の由来ではありません。西周金文の字を見ればわかりますが、番組内で定義された「目の画」は西周金文では単独で鳥の頭部分の輪郭になっています。この段階ではもはやこの画を奪うことはできず、省くと目どころか頭のない鳥になります。

番組内で定義された「目の画」は現在の「鳥」では2、3、5画目に相当します。

番組内で定義された「目の画」の後の位置

現在の「鳥」の4画目の横画の由来は、番組内で示されたものではなく、その中に描かれた点であり、すなわちその点こそが真の「目の画」です。

そして重要なことに、『角川 新字源』にも掲載されている毛公鼎の「烏」字には、番組内で定義された「目の画」も真の「目の画」も存在しています。

 

既に述べたように(真の)「目の画」はあってもなくてもいい、字の区別とは関係のない筆画です。現在の「鳥」は(真の)「目の画」がある形に由来し、現在の「烏」は(真の)「目の画」がない形に由来しますが、それはたまたまであり、「体が黒く目がどこにあるかわからないから」ではありません。

*1:ここで引用した『角川 新字源』と『漢字源』はどちらも2010年代に改訂され、旧版から編者が交代し、その際にいわゆる「漢字の成り立ち」「字源」の解説は全面的な見直しと書き換えが行われましたが、「烏」字に関する(誤った)解説は維持されました。

*2:関連して、張涌泉:《敦煌俗字研究》第二版,上海教育出版社,2015年,p606、梁春勝:《六朝石刻叢考》,中華書局,2021年,p822-823 も参考。

*3:林罕について詳しくは、顧宏義:《五代林罕及其〈字源偏傍小説〉考略》,《辭書研究》2010年第1期。

*4:断片的に残っている他の書物に引用された部分をもとに、オリジナルの《説文解字》の内容がどのようなものだったかを考察したものに、陶生魁:《〈説文古本考〉考》,花木蘭出版社,2013年 がありますが、引用されやすい本文とは異なり、引用されることが稀である小篆についてはほとんど触れられていません。

*5:関連して、裘錫圭:《文字學概要(修訂本)》,商務印書館,2013年,p68-69(稲畑耕一郎・崎川隆・荻野友範訳、『中国漢字学講義』、東方書店、2022年、p122-123)も参照。

*6:張天恩 主編:《陝西金文集成》,三秦出版社,2016年。

*7:西周金文における「烏」字の使われ方については、張世超、孫凌安、金國泰、馬如森:《金文形義通解》,中文出版社,1996年,p926-928。

*8:例えば、●李孝定 撰:《金文詁林讀後記》,《中央研究院歷史語言研究所專刊之八十》,1982年,p141-142。●湯餘惠:《略論戰國文字形體研究中的幾個問題》,《古文字研究》第15輯,中華書局,1986年,p20。●何琳儀:《戰國古文字典》,中華書局,1998年,p439-440。●黄德寬 主編:《古文字譜系疏證》,商務印書館,2007年,p1247-1249。●張亞初:《商周古文字源流疏證》,中華書局,2014年,p2177-2181。●季旭昇 撰:《説文新證》,藝文印書館,2014年,p309-310。●陳建勝:《説文部首源流》,上海古籍出版社,2019年,p235-237。なお《商周古文字源流疏證》と《説文新證》は「カラスの漢字“烏”が“鳥”より一画少ないのは体が黒く目がどこにあるかわからないから」の説が誤りだとはっきり書いています。

*9:なお『角川 新字源』に掲載されている甲骨文は、中國社會科學院考古研究所編:《甲骨文編》,中華書局,1965年 に完全に依存していると思われます。