古代漢字学習ブログ @kanji_jigen

古文字(古代の漢字)の研究に関するメモ

「慶」字に「夊」が含まれる理由

「夏」字に「夊」が含まれる理由』という記事では、古文字においてヒト形の下部に足が描かれた結果楷書で「夊」形が現れる字について紹介しました。「夏」「夋」「處(処)」のほか「夌」「夒」などがこれに該当します。今記事では「慶」字について説明します。

 

「慶」字は「廌+心」からなります(「廌」は鹿に類する動物の形です)。甲骨金文では以下のように書かれます。

慶:《合集》24474
慶:《合集》36550
慶:《銘圖》5341六年琱生簋
慶:《銘圖》2279焂戒鼎

右2例下部のf:id:kanji_jigen:20200828020554j:plainは「廌」の尾の部分です。

春秋・戦国時代に至って、斉系地域で書かれた「慶」字においてもこの筆画は保たれています。

慶:《盛世》89
慶:《璽彙》0236
慶:《璽彙》3427
慶:《璽彙》1146

 

しかし楚国では、その尾の部分の筆画が変化して「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」になりました。

慶:包山楚簡《疋獄》簡87
慶:清華簡《子儀》簡2
慶:郭店楚簡《緇衣》簡13
慶:上博簡《舉治王天下》簡35

最後の例は「虫」が「䖵」に変化していますが、「虫」旁と「䖵」旁の交換はよく見られる現象です。

秦国では、この「虫」形がさらに「夊」に変化しました。

慶:三十七年上郡守慶戈《銘圖》17296
慶:《陝出印》657
慶:《珍展》165
慶:《陶録》6.441.2

そして秦の文字統一により、この書き方が規範となりました。

 

つまり、「慶」字の下部「夊」は、「廌」形の尾部分の筆画が変化したものということです。

合理的な学説に必要な要素(1):客観性

諸説の合理性』という記事で、「諸説」は評価がされるというような話をしました。では、どのような説が合理的と評価されて、どのような説が誤りと判断されるのでしょうか。翻って言えば、合理的な説とはどうあるべきなのでしょうか。これについて述べたいと思います。

 

重要な要素の一つに「客観性」があります。

客観的根拠を要してはじめて合理性が生まれ、評価の対象となります。

飯間氏は上記のように「諸説」を分類しています。この文章を読むと、表面上「否定材料がなければ、議論に値する(A~C)と判断される」ように感じます。また、誤説の護衛者はしばしば「明白な否定材料がなければ間違いとは言い切れない」というようなことを言います(そして多くの場合、その他の説を否定材料なく無視します)。

しかし実際には、客観的根拠がなければそもそも上記A~Dに分類される以前に評価の俎上にあげるべきではありません。例えるならば、途中式が全く書かれていないか読み取れない数学テストの解答といったところでしょうか。

「夏」字に「夊」が含まれる理由

漢字の構成要素に「夊」という部品があります。義符としては移動、特にこちらにやってくる(戻ってくる)ことに関する意味を表し、「後」「復」字等に含まれています。楷書ではわかりませんが、「退」字にも含まれています。「麥(麦)」字は{來}を表していたので「夊」が含まれています。しかし「夏」という字は、「夊」が含まれていますが、「やってくる」こととは意味上つながらなさそうです。これはどう解釈すればいいのでしょうか。

結論を言うと、この「夏」字中の「夊」は、「やってくる」ことを表す義符ではなく、人の形の足部分が分離したものです。

これについて説明する前に、まず次の字を紹介します。 

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この字は金文中の一般に「重」と解釈されている字で、人が荷物を担いでいる形です。左の字はヒト形に足が描かれていませんが、右の字は足が描かれています(朱色で示した部分)。このように、古文字中ではヒトの形に足が描かれていたりそうでなかったりします。

次に「𢦚」という字の金文字形を見ます。

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「𢦚」字は西周金文中では一般に左の字のように書かれますが、たまに右側のように足が描かれた字が見られます。もともと足を描かないのが普通であったヒト形を含む字に対して、足を加えるという現象が、特に西周金文ではよく見られます。

次の例は「埶(藝)」字で、ヒトが植物を植えている形です。

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左が早期の形で、右の字は足が加えられた字です。ここでは足の部分が「女」旁のような形に変化しています。

次の字は西周金文において{揚}に用いられている字です。

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次の字は「顯(顕)」字の西周金文の例です。

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「夏」字もこのような例と同じです。「夏」字は「日+頁」の形(太陽の熱射を浴びているヒトの形)で、西周代に足が加えられました。

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このヒトの足の部分が楷書で「夊」の形になりました。

 

なお、「俊」「駿」字の右側「夋」の下部も同様の例です。この「夋」は「允」という字に足が加えられたものです。「畯」字は早期の金文では「㽙」の形になっています。

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「處(処)」字の下部も同様の例です。

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「処」という字体はこの字の上部の「虍」を省略してできました。

 

標題の解答としては、「古文字(特に西周金文)ではヒト形の足部分に(足の形である)「止/夊」旁を書き加えることがよくあったため、ヒトの形である「頁」が含まれている「夏」字にも足が加えられた字体が作られ、その字体が後世に伝わり隷書・楷書で「夊」形になった」というところでしょうか。

諸説の合理性

漢字の成り立ちの説明、というよりあらゆる現象の説明には、ピンからキリまでいろいろな説があります。各説に対して「これは誤りです、これは正しいです」のようなことを言うと、しばしば「どれが正しいかはわからない」的なコメントがくることがあります。

実際にはこういうことを言う人の中には『学術的態度をはなから放棄して自分の信仰する考え方を絶対正義としていて異を唱える人は悪とみなす』的な人が少なくなく、そういう人を学者が説得することは不可能です。しかし、それを見ている浮動的な立場の第三者が誤った道に進まないように、「どれが正しいかはわからない」的態度のよくなさを説明しておくことは重要ですので、そうした話題もこのブログにメモしておきます。

 

このことについて日本語学者の飯間浩明氏が良い解答をしているので、一つ引用します。

飯間氏がこのツリーで「妥当性」と呼んでいるものを私は「合理性」と呼んでいます。

 

試験の点数で「優/良/可/不可」と評価されるがごとく、「諸説」はみなそれぞれ合理性という観点から点数がつけられて、一定の合理性を有するものが正しいと評価され、合理性を有さないものは誤りと評価される、というわけですね(二段階評価がされるという意味ではない)。そして「みんな頑張ってるから点数はつけません!」とかにはならないわけです。

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