古代漢字学習ブログ @kanji_jigen

古文字(古代の漢字)の研究に関するメモ

字符の理解

機能・役割に基づいて分解したときの個々の構成要素を「字符」と呼びます。これは見た目に分解できるものとは異なります。この二つを混同していたために「字符」というものを正確にとらえることができず、漢字の字形に対して誤った分析や不自然な解釈をしている場面は少なくありません。
特に、現在広まっている六書の考えは、見た目上の分解と機能・役割に基づいた分解を混同し、かつその上でどうにか象形・指事・会意・形声の四種類に収めようとよう縛りを行っているような非科学的理論なので、必然的に不自然になっています。主に、「形声」のみが役割に基づいた分類になっており、それ以外は見た目に基づいた分類になっています。

例えば「見」という字は、「目+儿」に分解できますが、これは明らかに見た目上の分解であって、「目」や「儿」はなんらかの機能を持った「字符」ではありません。機能・役割に基づいたならば「見」という字は、「みる」という意味(正確には{見}という言葉)を表す形符「見」のみからなる字(1字符からなる字)と考えるべきでしょう。「休」という字も同じことが言えます。 現在広まっている六書の考えでは、「見」や「休」といった字は見ため上分解できるため「会意」とすることが多いようです。
つまり、現在広まっている六書の考えにおいて象形とされる「人」「象」「日」等と指事とされる「上」「下」「刃」等と会意とされる「見」や「休」や「取」等は形符1つからなるという点で共通する構造になっています。見た目上分解できるかどうかというのは、言葉を絵で表した結果の差でしかありません。見た目上の分解できる字に関して言えば、言葉の意味を絵で表現しようと思った場合目に見える物体名詞であればその見た目を書けばいいだけですが、たとえば動詞(特に他動詞)は分解できない見た目で書くことは困難なので、複数のものを描いているわけです。現在広まっている六書の考えにおける「象形・指事・会意」の大部分は、字の機能とは関係なく、図画方式のために生まれた差に基づいて分類されています。ヒエログリフでも、例えば「𓂠(差し出す)」という壺を差し出す形の字は、見た目上は腕の形の字「𓂝」と壺の形の字「𓏌」に分解できますが、『「𓂝」と「𓏌」を組み合わせた字』ではなく「𓂝」とも「𓏌」とも無関係の『「差し出す」等の意味を持つ1つの字』とされているようです。
一方で「武」という字は、武力行為に関する義符「戈」と進行に関する義符「止」からなる、義符+義符からなる(古文字では数少ない)ある意味真正の会意とも呼べる構造です。1つの形符からなるが見た目上分解できる字と、2つの義符からなる字は、現在広まっている六書の考えでは見た目上分解できるという共通点のみに基づいて同じ「会意」とされていますが、両者は機能的構造は全く異なります。この区別は「位置関係を変更できるか」という点に着目するとわかりやすいです。「休」は人が木陰にいる形という形符1つからなっているため、例えば人と木を「⿱人木」のように上下構造にするのは不自然に思えます。ヒエログリフでも、例えば「𓂠」が「𓂝𓏌」と書かれることはないでしょう。一方で「武」の「戈」と「止」は(字形のバランスを無視すれば)位置関係を変更してもよさそうに思われます。「武」の場合は字形バランスのために例がありませんが、実際2つ以上の字符からなる字は位置関係が変更された複数の書き方がしばしば存在します(「峯-峰」など)。
まとめると、「見」や「𓂠」といった字は見た目上分解できるが2つ以上の字符から構成されているわけではない『1つの絵』であるが、「武」字は(形声字のように)複数の字符を組み合わせてできた字であり『1つの絵(戈の下に足がある絵)』ではない、ということになります。