古代漢字学習ブログ @kanji_jigen

古文字(古代の漢字)の研究に関するメモ

「愛」字に「夊」が含まれる理由

「夏」字に「夊」が含まれる理由』という記事では、古文字においてヒト形の下部に足が描かれた結果楷書で「夊」形が現れる字について紹介しました。「夏」「夋」「處(処)」のほか「夌」「夒」などがこれに該当します。また、『「慶」字に「夊」が含まれる理由』では、「慶」字の下部の「夊」が動物の尾「f:id:kanji_jigen:20200828020554j:plain」の部分から変化したものであることを紹介しました。今記事では「愛」字について説明します。

 

戦国楚簡では、{愛}には以下のような「㤅」字が用いられています*1

㤅:清華簡《程寤》簡9
㤅:郭店楚簡《緇衣》簡25
㤅:上博簡《競公瘧》簡3
㤅:郭店楚簡《老子甲》簡36

「㤅」字は「旡」が声符・「心」が意符の典型的形声字で、「愛」字は「㤅」に「夊」が加えられてできた字ですが、「愛」字に往来に関する意味はありません*2。「愛」字中の「夊」については、以下に挙げる戦国楚簡中の「㤅」の異体字*3が重要になります。

愛:上博簡《孔子詩論》簡11
愛:上博簡《孔子詩論》簡15
愛:上博簡《孔子詩論》簡15

この字は一般的な「㤅」字の右下に「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」を加えた字です。

 

これについて、禤健聡氏は以下のように説明します*4。「愛」の上古音は影母物部、「虫」の上古音は曉母微部で近いため、「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」は声符の添加と考えられる。したがって「慶」の下部の尾(f:id:kanji_jigen:20200828020554j:plain)が「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」となって「夊」となった例と同様に、「愛」字も「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」が「夊」となったものと考えられる。

禤健聡氏の説は一定の合理性がありますが、しかし問題点もあります。「愛」およびその声符「旡/既」は開口韻母、「虫」は合口韻母であるため、実際には「音が近い」と簡単には言えません。構形学的に、「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」が加えられた字と「夊」が加えられた字をそれぞれより多く集めて、その関係を検討する必要があります。

 

「夏」字は「日+頁」からなる字であり、楷書体の下部の「夊」は、「頁」(人体形)の下部に加えられた飾符であることは既に述べました。「夏」は戦国楚簡では以下のように、左下に「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」が存在する形で書かれることもあります*5

暊:清華簡《湯處於湯丘》簡12
暊:包山楚簡卜筮簡200
暊:包山楚簡《貸金》簡115

「憂」字は「頁」を声符・「心」を意符とする形声字であり、「夏」字と同様に、楷書体の下部の「夊」は、「頁」(人体形)の下部に加えられた飾符です。「憂」は戦国楚簡では以下のように、「頁+心」の字体(下図左123)で書かれますが、長沙楚帛書には左下に「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」が存在する形の字が書かれています(左4)。

𢝊:上博簡《内禮》簡6
𢝊:清華簡《皇門》簡12
𢝊:清華簡《子産》簡8
憂:楚帛書乙篇12行

 「㤅」字上部の「旡」は、座って後方を向いた人の形に由来します。馬王堆漢簡には、下部に「夊」が追加された「既」字が見られます*6

既:馬王堆漢簡《十問》簡71

戦国楚簡における「夏」「憂」字中の「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」は声符とは解釈できず、禤健聡氏も認めるように、「夊」旁の変化形とみるべきです。また「既」字の例からは「旡」自体に「夊」旁が付加される可能性を有していることがわかります。こうした例そして共通原因の定理から、「愛」字下部の「夊」もまた、先例のように、ヒト形に加えられた足の形の飾符であり、戦国楚簡中の異体字に見られる「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」は「夊」の由来ではなくむしろ「夊」部分が変化した後の形である、とするのが合理的でしょう。

 

したがってまとめると、「古文字ではヒト形の足部分に(足の形である)「止/夊」旁を書き加えることがよくあった。例えばヒトの形である「頁」や「旡」が含まれている「暊→夏」「𢝊→憂」「㤅→愛」といった字に足が加えられた字体が作られ、その字体が後世に伝わり隷書・楷書で「夊」を含む形になった。一方で、戦国楚簡ではその「止/夊」旁はしばしば「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」形に変化した。」となります。

*1:李學勤主編:《清華大學藏戰國竹簡(壹―叁)文字編》修訂本,中西書局,2020年10月,第266頁。饒宗頤主編:《上博藏戰國楚竹書字匯》,安徽大學出版社,2012年10月,第543頁。などを参照。

*2:《故訓彙纂》P808、《漢語大字典》卷四P2487等を参照。《説文》に「行皃」とあるのは望形生訓でしょう。

*3:《上博藏戰國楚竹書字匯》P650などを参照。

*4:禤健聰:《楚簡文字與〈説文〉互證舉例》;王蘊智等主編《許慎文化研究》,中國文藝出版社,2016年2月,第311-312頁。禤健聰:《説上博〈吴命〉“先人”之言并論楚簡“害”字》;《古文字研究》第28輯,中華書局,2010年10月,第467-468頁。

*5:李學勤主編:《清華大學藏戰國竹簡(肆―陸)文字編》,中西書局,2017年10月,第132頁。李守奎等:《包山楚墓文字全編》,上海古籍出版社,2012年12月,第207頁。などを参照

*6:劉釗:《馬王堆漢墓簡帛文字全編》,中華書局,2020年1月,第582頁。などを参照。

古文字学における2つの「科学」

《古文字學導論》*1にはじまるとされる、いわゆる古文字学の近代化以降、古文字学において(主に方法論として)「科学的○○」という言葉をたまに見るようになりました。そこで、この「科学」とはなんなのでしょう(なお、このブログは古文字学を扱うブログなので、「科学とは本質的に何なのか」みたいな哲学的な話はしません)。

古文字学における「科学」について見てみると、大きく分けて二種類の「科学」があるように思います。いま、これを「グローバルな科学」と「ローカルな科学」と名付けて、それぞれ紹介したいと思います。

 

*1:唐蘭:《古文字學導論》,來薫閣書店,1935年。

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合理的な学説に必要な要素(2):一貫性・一般性

合理的な説明をするにあたり、『合理的な学説に必要な要素(1):客観性』では客観性が重要という話をしました。今回は「一貫性(一般性)」についてです。

 


 

とりあえず言葉ではわかりづいらいので、例で説明します。ここに、「都道府県名が入力されると、何らかの法則に基づいて自治体名を出力するプログラム」があったとして、以下のようなことがわかっているとします。

このプログラムの挙動について、以下のような解釈が考えられます。両方の解釈とも、既知の情報とは矛盾していません。

  1. 入力が海無し県ならば県庁所在地を出力し、海に面する県ならば面積最大の市町村を出力する
  2. 入力された県のなかで人口最大の市を出力する。

1.は入力県が海に面しているかどうかで別の挙動をしていると解釈しているのに対して、2.はそのような場合分けの必要がない解釈を行っています。言い換えれば、2.はわかっている4つの例全てを一貫して同じように説明できています。これがここでいう一貫性です。

1.は、2.の解釈では一つの現象として説明できる4例を2例ずつに分けて別個に説明しており、「単純なものを複雑化」してしまっている例です。私達は今ある情報を最も自然に説明しなければなりません。「単純なものを複雑化」する行為、すなわち一貫性のない解釈は不合理です。

こうした一貫性のない解釈において、たとえばここでは「海に面しているかどうか」で分けましたが、このような「場合分け基準」もしばしば恣意的になりがちです。これは、結果ありきの考えや旧説の呪縛に由来していることがあります。例えば、当初は「埼玉県→さいたま市」と「長野県→長野市」の情報のみであったために「県庁所在地を出力する」と考えたが、後に「福島県いわき市」「静岡県浜松市」の例がでてきてしまい修正を迫られたものの「県庁所在地」という考えを固守したいがために新情報は別パターン(例外)として処理する、そのためにとりあえず「海に面しているかどうか」という理由を持ってくる、といった流れです。

47例のうち1例だけがあてはまらない場合ならまだしも、4例のうち2例を例外と考えるのは不合理、という言い方もできます。

 


 

以下いわゆる字源説の例を2つ挙げます。

 

漢字はほとんどが形声字といわれています。その数は70%とか80%とか言われていますが、ともかく過半数を超える漢字が音の近い別の字に従っているという事実があるため、多くの字の一部分は語の発音を表している部分として説明ができるということです。

こうした状況の中で、もし同様に形声字と説明できる字に対して異なる解釈をすれば――例えば「蚊」字中の「文」を声符ではなく虫の羽音に由来すると解釈する等――一貫性を欠き、即ち合理性がなく信用できません。なぜ同じ状況下の多数派から分離するのでしょうか?なぜ形声字であることが否定されるのでしょうか?私達は、無意味に(かつ無根拠に)仮定を増やすべきではありません。

 

殷墟甲骨文において「合」字は以下のように書かれます。見てわかるように、上下対称形になっています。右の二例は刻写の便のため上部が「∩」形から「∧」形に変化しています。

合:《合集》14365
合:《屯南》248
合:《合集》3297
合:《合集》3298

また殷墟甲骨文において「令」字と「食」字はそれぞれ以下のように書かれます。

令:《合補》6925
令:《合集》5780
食:《合集》20961
食:《合集》11485

上図のように、「合」の上部・「令」の上部・「食」の上部および「合」の下部の反転形は同じ形です。これに対して、現行の漢和辞典は以下のように解釈しています。

  『新字源』 『漢字源』 『新漢語林』
「合」上部 意符「亼」(集まる) 蓋の形 蓋の形
「令」上部 意符「亼」(集める) 意符「亼」(集める) 意符「亼」(集める)
または冠の形
「食」上部 蓋の形 意符「亼」(集める) 蓋の形
「合」下部 器の口の形 穴あるいは器の形 器の形

いずれの辞典とも、各字の形をいきあたりばったりに・恣意的に・好き好きに解釈した結果、同じ形であるはずの部品に対して複数の異なる解釈を行っており、これも一貫性を完全に失っている例といえます。

注目すべきは「合」字で、この字が同じ部品を上下対称に向かい合わせた形であることに着目すると、これが何の象形であっても「合う」という意味であることは説明できますが、(特に『新字源』のように)それぞれ別の部品と解釈するのは不合理です。この「合」の下部は、多くの人がよく知る口舌の「口」字と完全に同じ形であり、したがって、「合」の上部・「令」の上部・「食」の上部もまた「口」と解釈するのが最も自然です。{令}と{食}はともに口に関する動作ですから、「口」に従うのは当然のことです。

「慶」字に「夊」が含まれる理由

「夏」字に「夊」が含まれる理由』という記事では、古文字においてヒト形の下部に足が描かれた結果楷書で「夊」形が現れる字について紹介しました。「夏」「夋」「處(処)」のほか「夌」「夒」などがこれに該当します。今記事では「慶」字について説明します。

 

「慶」字は「廌+心」からなります(「廌」は鹿に類する動物の形です)。甲骨金文では以下のように書かれます。

慶:《合集》24474
慶:《合集》36550
慶:《銘圖》5341六年琱生簋
慶:《銘圖》2279焂戒鼎

右2例下部のf:id:kanji_jigen:20200828020554j:plainは「廌」の尾の部分です。

春秋・戦国時代に至って、斉系地域で書かれた「慶」字においてもこの筆画は保たれています。

慶:《盛世》89
慶:《璽彙》0236
慶:《璽彙》3427
慶:《璽彙》1146

 

しかし楚国では、その尾の部分の筆画が変化して「f:id:kanji_jigen:20200828025845j:plain(虫)」になりました。

慶:包山楚簡《疋獄》簡87
慶:清華簡《子儀》簡2
慶:郭店楚簡《緇衣》簡13
慶:上博簡《舉治王天下》簡35

最後の例は「虫」が「䖵」に変化していますが、「虫」旁と「䖵」旁の交換はよく見られる現象です。

秦国では、この「虫」形がさらに「夊」に変化しました。

慶:三十七年上郡守慶戈《銘圖》17296
慶:《陝出印》657
慶:《珍展》165
慶:《陶録》6.441.2

そして秦の文字統一により、この書き方が規範となりました。

 

つまり、「慶」字の下部「夊」は、「廌」形の尾部分の筆画が変化したものということです。

合理的な学説に必要な要素(1):客観性

諸説の合理性』という記事で、「諸説」は評価がされるというような話をしました。では、どのような説が合理的と評価されて、どのような説が誤りと判断されるのでしょうか。翻って言えば、合理的な説とはどうあるべきなのでしょうか。これについて述べたいと思います。

 

重要な要素の一つに「客観性」があります。

客観的根拠を要してはじめて合理性が生まれ、評価の対象となります。

飯間氏は上記のように「諸説」を分類しています。この文章を読むと、表面上「否定材料がなければ、議論に値する(A~C)と判断される」ように感じます。また、誤説の護衛者はしばしば「明白な否定材料がなければ間違いとは言い切れない」というようなことを言います(そして多くの場合、その他の説を否定材料なく無視します)。

しかし実際には、客観的根拠がなければそもそも上記A~Dに分類される以前に評価の俎上にあげるべきではありません。例えるならば、途中式が全く書かれていないか読み取れない数学テストの解答といったところでしょうか。

「夏」字に「夊」が含まれる理由

漢字の構成要素に「夊」という部品があります。義符としては移動、特にこちらにやってくる(戻ってくる)ことに関する意味を表し、「後」「復」字等に含まれています。楷書ではわかりませんが、「退」字にも含まれています。「麥(麦)」字は{來}を表していたので「夊」が含まれています。しかし「夏」という字は、「夊」が含まれていますが、「やってくる」こととは意味上つながらなさそうです。これはどう解釈すればいいのでしょうか。

結論を言うと、この「夏」字中の「夊」は、「やってくる」ことを表す義符ではなく、人の形の足部分が分離したものです。

これについて説明する前に、まず次の字を紹介します。 

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この字は金文中の一般に「重」と解釈されている字で、人が荷物を担いでいる形です。左の字はヒト形に足が描かれていませんが、右の字は足が描かれています(朱色で示した部分)。このように、古文字中ではヒトの形に足が描かれていたりそうでなかったりします。

次に「𢦚」という字の金文字形を見ます。

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「𢦚」字は西周金文中では一般に左の字のように書かれますが、たまに右側のように足が描かれた字が見られます。もともと足を描かないのが普通であったヒト形を含む字に対して、足を加えるという現象が、特に西周金文ではよく見られます。

次の例は「埶(藝)」字で、ヒトが植物を植えている形です。

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左が早期の形で、右の字は足が加えられた字です。ここでは足の部分が「女」旁のような形に変化しています。

次の字は西周金文において{揚}に用いられている字です。

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次の字は「顯(顕)」字の西周金文の例です。

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「夏」字もこのような例と同じです。「夏」字は「日+頁」の形(太陽の熱射を浴びているヒトの形)で、西周代に足が加えられました。

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このヒトの足の部分が楷書で「夊」の形になりました。

 

なお、「俊」「駿」字の右側「夋」の下部も同様の例です。この「夋」は「允」という字に足が加えられたものです。「畯」字は早期の金文では「㽙」の形になっています。

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「處(処)」字の下部も同様の例です。

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「処」という字体はこの字の上部の「虍」を省略してできました。

 

標題の解答としては、「古文字(特に西周金文)ではヒト形の足部分に(足の形である)「止/夊」旁を書き加えることがよくあったため、ヒトの形である「頁」が含まれている「夏」字にも足が加えられた字体が作られ、その字体が後世に伝わり隷書・楷書で「夊」形になった」というところでしょうか。

諸説の合理性

漢字の成り立ちの説明、というよりあらゆる現象の説明には、ピンからキリまでいろいろな説があります。各説に対して「これは誤りです、これは正しいです」のようなことを言うと、しばしば「どれが正しいかはわからない」的なコメントがくることがあります。

実際にはこういうことを言う人の中には『学術的態度をはなから放棄して自分の信仰する考え方を絶対正義としていて異を唱える人は悪とみなす』的な人が少なくなく、そういう人を学者が説得することは不可能です。しかし、それを見ている浮動的な立場の第三者が誤った道に進まないように、「どれが正しいかはわからない」的態度のよくなさを説明しておくことは重要ですので、そうした話題もこのブログにメモしておきます。

 

このことについて日本語学者の飯間浩明氏が良い解答をしているので、一つ引用します。

飯間氏がこのツリーで「妥当性」と呼んでいるものを私は「合理性」と呼んでいます。

 

試験の点数で「優/良/可/不可」と評価されるがごとく、「諸説」はみなそれぞれ合理性という観点から点数がつけられて、一定の合理性を有するものが正しいと評価され、合理性を有さないものは誤りと評価される、というわけですね(二段階評価がされるという意味ではない)。そして「みんな頑張ってるから点数はつけません!」とかにはならないわけです。